女の人が土俵に上がれないのはなぜ?相撲から見える“作られた伝統”を解説します!

「女性は土俵に上がれない。」  

そう聞くと、誰もが「昔からの神聖な伝統」だと思いますよね。  

けれど――この“禁じられたルール”には、思いもよらない真実がありました。  

相撲の舞台裏に眠る、その秘密を紐解いていきましょう!

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女の人は土俵に上がれない?

相撲の土俵

土俵の上に女の人が上がると、「すぐに降りてください!」というアナウンスが流れる。

テレビやニュースでそんな場面を見たことがあるかもしれませんね。

「相撲は神聖なものだから」「神様をけがすから」——。

誰もがそう聞いて、「昔からの伝統なんだろうな」と思うかもしれません。

でも、それって本当に“昔から”なのでしょうか?

実は、『女人禁制にょにんきんぜい』という考え方は、明治時代になってから生まれた新しい伝統なのです。

つまり、古代や江戸時代の相撲は、いま私たちが知っている相撲とはだいぶ違う世界でした。

ではさっそく、その歴史をのぞいてみましょう!

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日本最初の相撲は「女相撲」だった!?

相撲の土俵2

日本でいちばん古い歴史書『日本書紀』を開くと、びっくりするような話が書いてあります。

雄略天皇ゆうりゃくてんのうが、女官(采女うねめ)という宮中の女性を呼び出して、その場でふんどし姿にして相撲を取らせたというのです。

理由は驚くほど突飛なものでした。「自分は絶対に失敗しない」と豪語していた木工の名人の手元を狂わせるため、女官をふんどし姿にして相撲を取らせたのでした。

今なら大問題ですが、当時は「女性が相撲を取る」ことに誰も驚きませんでした。

つまり、日本最初の相撲の記録は女性による相撲

なんと、相撲の起源に「女相撲」があったのです。

もちろん、当時の価値観では、いまのようなスポーツというよりは天皇の命令に従う行為でしたが、少なくとも「女が土俵に上がるのはけしからん!」という考えはありませんでした。

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江戸の町ではみんな「女相撲」に夢中!

鎌倉山女相撲
出典;http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/

江戸時代に入ると、相撲はお祭りや見世物として人気爆発!!

寺や神社の境内では「勧進相撲かんじんずもう(寺の修繕資金集め)」が毎週のように開催。

観客は大はしゃぎで、人々の娯楽の中心になっていきました。

そのなかでも評判だったのが、女性だけの「女相撲」。

まわし姿の女性力士たちが取組をする姿は、当時の庶民たちの話題の的でした。

1596年の本『義残後覚ぎざんこうかく』には、なんと尼さんが出場していたことが書かれています。

さらに1785年の『鎌倉山女相撲』という絵画には、女性同士の真剣勝負の様子まで描かれています。

つまり、江戸時代の人にとって、女が土俵に上がるのは「当たり前」であり「楽しい見世物」だったのです。

いまの感覚で言えば、まるで「女子プロレスの人気選手」が人々に喝采を浴びているようなものでした。

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明治のピンチ「野蛮だからやめろ」!?

相撲の仕切り

ところが、明治時代に入ると風向きが変わります。

「文明開化」の波が押し寄せてきた日本では、西洋の文化を取り入れて「近代的な国」を目指すようになりました。

西洋人たちからは「裸の男たちがぶつかり合うなんて野蛮だ!」とバカにされ、政府も「日本を格好よく見せるためには、こういう見せ物はやめた方がいい」と考え始めます。

そして1877年(明治10年)、政治家の大久保利通おおくぼとしみちが「神社やお寺での見せ物は禁止!」というお達しを出してしまったのです。

つまり、相撲は神社から追い出された――。

神聖どころか、「行儀の悪い見世物」とされてしまいました。

当時の相撲は「神道の儀式」なんかではなく、“庶民の興行”にすぎなかったのです。

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板垣退助が動いた!相撲を「国の誇り」に変える

板垣退助

そんなピンチを救ったのが、政治家の板垣退助いたがきたいすけ

そう、「自由民権運動」で有名なあの人です。

実は板垣退助は大の相撲ファン。自分の家に力士を住まわせ、練習までさせていたそうです。

彼は思いました。
「相撲は日本人の魂だ! 外国にバカにされるどころか、誇りにすべきだ!」

そこで改革に乗り出し、明治42年(1909年)に初代「国技館」を作り上げます。

相撲はここで「日本の国技」と呼ばれるようになるのです。

でも、“国の誇り”にするなら、ただの見せ物ではダメ。

そこで「神道の儀式」という設定(土俵に塩、しめ縄、行司の神官風衣装など)が後から加えられ、土俵が「神聖な場所」になっていきました。

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「神聖な土俵」=本当は演出だった!?

相撲の仕切り2

国技館では、神社のようにしめ縄を張り、土俵のまわりに塩をまく儀式も取り入れられました。

「相撲は神様への奉納」「土俵は穢れけがれを許さない聖域」というイメージが出来上がっていきます。

けれども、歴史をたどると、それは明治以降にデザインされた演出だったことがわかります。

江戸時代の相撲は神事ではなく、「神社という場所」を借りた商売でした。

それが「国技」となる過程で、宗教のイメージが後づけされたのです。

「女性は穢れをもたらす」という古い宗教観をうまく利用して、『女人禁制』というルールもそこに“くっつけられた”のです

つまり、「神道だから」という理由は、相撲を格上げするための物語づくりだったのですね。

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100年の伝統はまだ「若い」

相撲の両国国技館

こうして相撲は、立派な国技として日本人の誇りになりました。

でも、少し立ち止まって考えてみましょう。

相撲が「国技」として生まれたのは1909年、まだ100年ちょっと前のこと。

江戸時代やそれ以前の何百年と比べたら、実はとっても「若い伝統」なのです。

つまり、『女人禁制』は何千年も続く神聖な掟ではなく、明治の近代化の中で作られたルール。

だからこそ、今の時代になって「本当に必要?」「昔の相撲に女性はいなかったの?」という疑問が出てくるのは、ごく自然なことなのです。

相撲と女人禁制の超わかりやすい年表!

年代出来事女人禁制の状況
469年ごろ『日本書紀』に女官の相撲日本最古の相撲は女性
江戸初期『義残後覚』に尼さん力士女相撲大人気
江戸後期『鎌倉山女相撲絵』まわし女性力士が活躍
1877年(明治10年)大久保利通の布告神社での見世物禁止。相撲は一時低迷。
1909年(明治42年)初代「国技館」完成板垣退助の尽力で「国技」の地位へ。
明治後期女人禁制定着神聖さを演出するために制定。
2018〜舞鶴事件・再検討談話見直し議論中

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おわりに

相撲の「女人禁制」は、昔から変わらない神聖な掟ではなく、明治時代に作られた、男の世界を神聖に見せるための演出でした。

でも、歴史を知ると気づきます。

伝統とは、時代の中で“作られてきたもの”です。

つまり、作れたものは、時代に合わせて“変える”こともできるということ。

土俵の上に上がれなかった女性たちの歴史を知ることは、「伝統とは何か」「守るべきものは何か」を考えるチャンスになるのです。

参考文献・ソース一覧

  • 原典:『日本書紀』(雄略天皇13年条)
  • 江戸資料:『義残後覚』(1596年刊)、鎌倉山女相撲絵巻(1785年)​
  • 明治史:風見明『相撲、国技となる』(平凡社新書)、内館牧子『女はなぜ土俵に上がれないのか』(講談社)​
  • 論文:吉崎・稲野「相撲における『女人禁制の伝統』について」(北海道大学)―明治以降の構築を指摘​
  • 現代:日本相撲協会談話(2018年)、nippon.com「女人禁制の経緯」​
  • その他:相撲博物館資料、東京日日新聞(1909年板垣インタビュー)​

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