毎年5月5日は、端午の節句です。
現代では「こどもの日」と言った方がわかりやすいかもしれませんね。
もともとは薬草を使って毒をはらう行事が原型で、子ども主体の行事ではありませんでした。
一体どうして、子どもの日になったのでしょうか?
今回は、端午の節句(子どもの日)の由来や歴史の変遷、その意味についてもご紹介していきます。
端午の節句・こどもの日とは?
端午の節句とは、毎年5月5日、男の子のいる家庭で武者人形を飾ったり、また鯉のぼりを立てて、子どもの健やかな成長を祝う行事です。
いわば、3月3日の桃の節句(女の子のお祝い)と対をなすものです。
しかし今では、5月5日といえば端午の節句というより、「こどもの日」として広く親しまれていますね!
では「端午の節句」と「こどもの日」、これらの違いは何でしょうか?
こどもの日とは?
「端午の節句」と「こどもの日」は、子供の成長を祝う目的としては同じものです。
もともとあった5月5日の端午の節句から、のちの昭和23年(1948年)、新しい国民の祝日の公布によって「こどもの日」が制定されました。
つまり端午の節句が「こどもの日」として、国民の休日となったのです。
5月5日は母の日?
法令では
と定められています。
・・・これを読んで、おやっ?と思われる方も多いのではないでしょうか。
後半の「母に感謝する日」はあまり定着していないようですね。
のちにやってくる5月第2日曜日の『母の日』はよく知られていますが、法律的には5月5日のこどもの日が、母の日だといえるようです。
また、「人格を重んじる」ということは、子どもを1人の人間としてリスペクトし、その子の存在を肯定するということです。
その子の良さを大いに認め、ぜひ積極的にほめてあげてくださいね。
端午の節句の由来
「端」というのは端(はじめ)という意味で、「端午」とは月の初めの午の日(5日)をさします。
つまり、もともとは5月に限られていたわけではなかったようです。
しかしそれが、「午」という文字の音が「5」に通じることで、奈良時代以降に、5月5日が端午の節句として定着していきました。
端午の節句の起源は、中国の民俗行事にあります。
そこで、中国から日本へと伝わる歴史の流れをみていきましょう!
中国で5月5日は「悪月の極日」だった
中国では、5月は「物忌みの月」「悪月」とされ、5月5日、5が重なるこの日に、邪気を祓う行事が行われていました。
なぜなら、中国の民間信仰「陰陽道」の思想から、5は凶の月で、忌み慎む月だったからです。
特に5月5日となると、まさに悪月の頂点の日として、その日に生まれた子どもは親を殺すといわれ、捨てる習わしがあったといわれています。
そのため中国ではこの日、ヨモギで人形や虎を作って門戸にかけたり、菖蒲をひたした酒(菖蒲酒)を飲んだり、菖蒲や蘭を入れたお湯に入るなどして、穢れや災厄をはらう行事が行われていました。
また、野に出て薬草を摘んだり、草を武器にして野遊びをしたり、舟競渡(今のボートレース)なども行われていたそうです。
この日を『端午の節句』としたのは、漢代(日本でいうと弥生時代)以降です。
「午」は「5」に通じるため、祓えの意義が強調されることとなり、天意に添うようにしたといわれています。
日本の5月5日は・・
一方、農耕民族の日本。
5月は、1年のうちでも特に重要な月でした。
それは、田植えの時期であったり、季節の変わり目にあたるため体調を崩す人が多く、独自の穢れを祓う習慣がありました。
そこで飛鳥時代には、中国の暦法から伝わった5月5日に「薬猟り」と称して、不吉をはらうための薬草を競い狩る風習が行われていました。
また大切な田植えの時期でもあったので、それに先立って、田の神さまを迎えて豊穣を祈る風習もあったようです。
農家の若い女性は巫女となり、菖蒲やヨモギで葺いた屋根の下、穢れをはらって身を清め、1日農業をお休みして静かに過ごすという風習です。
これを「葺き籠り」といい、5月5日の前夜から当日までを「女の家」などと呼んでいました。
中国の由来に加えて、日本もこの日の行事は邪気をはらう意味があり、5月5日は特別の日とされていたのです。
中国から伝わったのは平安時代
中国のようなしきたりが日本に伝わったのは、平安時代です。
宮廷では、5日~6日の2日間にわたって馬射や競馬などが行われ、その後は宴が催されていました。
庶民の間でも、屋根に菖蒲を挿し、ちまきを食べ、ヨモギの人形を作る中国伝来のしきたりに加えて、子どもたちは小弓を引いたり、石合戦したりと盛んに楽しんでいたようです。
ちなみに、1000年前に記された『枕草子』にも、端午の節句のはなしが出てきます。
作者の清少納言は、
「節は五月にしく月はなし。菖蒲、蓬などのかをりあひたる、いみじうをかし」
現代語訳:節句の中でも5月の節句(端午の節句)より良い月はないわね。菖蒲、蓬などが香っていて、本当にいい香りで最高!
といった具合で、誉め称えています。
彼女は、菖蒲やヨモギの爽やかな香りが大好きだったようですね。
別の章では、
「五月四日の夕つかた、青き草おほくいろうるはしく切りて、左右担ひて、赤衣来たる男の行くこそをかしけれ」
現代語訳:(端午の節句前日の)5月4日の夕方、青い菖蒲の花を綺麗にいっぱい切って、赤い服を着た男が左右両肩にかついで歩く姿がカッコイイ!
と清少納言は活写しています。
鎌倉時代以降は「男子」中心の行事へ
鎌倉時代になると、「菖蒲」が「尚武」(武道・軍事を重んじること)に通じるという語呂合わせの縁起で、武士の間でも盛んになって流鏑馬が行われるようになりました。
また子どもたちも、菖蒲の葉を編んで縄状にしたものを地面に打ちつけ、その音量を競い合って遊ぶ「菖蒲打ち」なども行うようになり、次第に男の子の節句という意味合いが強くなっていきました。
男の子たちは、菖蒲の葉が刀に似ていることから菖蒲刀を作り、武士の真似をして遊んでいたそうです。
菖蒲は、尚武の精神に基づき、きわめて武張った風習へと移り変わっていったのです。
江戸時代に端午の節句が定着
このような背景があって、江戸初期を迎える頃になると、武家では5月5日に、義経・弁慶などの兜人形を戸外に飾るようになりました。
庶民もこの影響を受け、次第に兜や武者人形を室内に飾るようになっていきました。
さらに中国の古いしきたりにならい、威勢の良い出世魚の鯉に見立てた幟を立てるようになりました。
この鯉のぼりは、男の子の健康と出世を祈って立てられたもので、端午の節句は、男子を中心とする祝いの日へと定着していきました。
こうして、3月3日の桃の節句に対応して、5月5日は端午の節句として独立したものとなったのです。
そして現代へ
『端午の節句』と呼ばれていた5月5日が、国民の休日「こどもの日」として制定されたのは、昭和23年(1948年)のことでした。
現在においては、端午の節句からの風習は残っているものの、男女の区別なく、子どもたちの成長を祝う行事として定着しているようですね。
例えば幼稚園の指導の中で、男女別なく工作で鯉のぼりを作らせて、家庭に持ち帰らせています。
また、「こどもの日」に向けて、男女を問わず全ての子どもが楽しめるイベントが各地で催されたり、特典を設けるキャンペーンが設けられたりします。
今や、学童期の子どもを持つ家庭の年中行事は、こういった教育機関やマスメディアがもたらす影響が強く、親はこの日はいつもの食卓を華やかにするなど、子どもを喜ばすための演出家であることが期待されるのです。
しかしそれでも江戸時代から、端午の節句(子どもの日)という劇場のプロデューサーは、子の親であり、それはいささかの変わりはないようです。
「鯉のぼり」の由来・意味とは?
端午の節句につきものの、鯉のぼり。
空に悠然となびく優雅な姿は、こどもの日の名物風景ですね!
鯉のぼりは、神さまを招くための依代(神霊の憑依物)が変化したものと考えられています。
中国の竜門(黄河の中流)の急流で、鯉が滝をのぼると龍(中国の霊獣)になる、という伝説があり、そこから「登竜門」や「鯉の滝登り」という言葉ができました。
そのため、鯉は立身出世のシンボルとされていました。
つまり、端午の節句で鯉のぼりが立てられるようになったのは、男子の出世を祈る表われです。
ちなみに、鯉は水揚げされても息が長く、まな板に乗せられるとまるで覚悟を決めたかのようにジタバタ動かないことから、いさぎよい強い魚だと、武士階級に尊ばれたそうです。
このことから、江戸時代中期には、武士の魂・出世魚として、男子誕生の際にはその喜びを広く世間に知ってもらうために、大きな鯉のぼりを戸外に立てるようになったそうです。
しかし、次第に華美を競う風潮になったことや、火災の消火の妨げになることから、屋外飾りは禁止になった時期がありました。
明治後半から大正になると、鯉のぼりは軍国社会の波に乗って再び戸外に立てるようになり、童謡『こいのぼり』でおなじみの真鯉と緋鯉の2匹が登場したのも、この頃からです。
昭和30年代後半になり、緋鯉の下につける子鯉の数は、その家の男児の数と定義されるようになりました。
端午の節句「ちまき」「柏餅」の由来は?
端午の節句と言えば、代表的なお菓子が『ちまき』と『柏餅』ですよね。
ではなぜ、このような行事食が生まれたのでしょうか?
『ちまき』の由来・語源
そもそも『ちまき』は中国生まれです。
そのルーツはとてもユニークなものです。
2200年前、中国の詩人「屈原」の死を弔うために、竹筒にお米を入れたものを川の中に投げ入れたそうです。
その際、竜に食べられないように五色の糸で巻いた、という伝説があります。
この故事によって、中国では端午の節句にちまきを食べるようになり、それ以降に日本にも伝わりました。
日本では、平安時代から食べられていたようです。
1100年前、もち米・豆・粟・枇杷で炊いた団子のようなものを茅で巻いていたので、「茅巻」と呼んでいたとか、ぐるぐる巻きにしていたので「千巻」だとか、語源にもいくつか説があります。
茅は強い繁殖力から、霊力が宿る植物と考えられていました。
しかし現在わたしたちが食べるちまきといえば、爽やかな香りの笹に包まれていますね。
『柏餅』は子孫繁栄の縁起物
端午の節句のお菓子といえば、今では「柏餅」のほうがなじみ深いかもしれませんね。
平安時代に椿の葉をつけた椿餅というものがあり、その同系統で大きな柏の葉1枚で包むようになったそうです。
餅菓子として流行になったのは江戸時代中期からです。
そもそも平安時代から食べられていた「ちまき」でしたが、しだいに柏餅の方が好んで食べられるようになっていったようです。
端午の節句の贈り物にする風習として定着したのもその頃からです。
「柏」は、新芽が出ないと古い葉が落ちない、という特徴があり、そこから「家系が途絶えない」縁起物となりました。
つまり「柏の葉」=「子孫繁栄」という意味を持たせていたのです。
人は古代から、植物の恵みに支えられて生きてきたということをますます感じますね!
こどもの日から1週間は「児童福祉週間」
国民の休日「こどもの日」が制定されたのが、昭和23年(1948年)。
それから3年後の昭和26年(1951年)5月5日には、日本国憲法の精神に従って、全ての児童の幸福をはかるために「児童憲章」が定められました。
その前文には、以下のように記されてあります。
児童は、人として尊ばれる
児童は、社会の一員として尊ばれる
児童は、よい環境の中で育てられる
これを読んで、ごく当たり前のことだなぁ、と思う方も多いと思います。
しかし当時は、世界大戦後の荒廃した社会の中で、子どもたちの健全な成長を害する事件が絶えず、子どもの権利という考え方は非常に稀薄なものでした。
そのため、社会や国民一般の児童に対する責任を改めて明確にする必要があり、制定に至ったのです。
私たちはこの憲章は守っていかなくてはなりません。
毎年5月5日から一週間は、『児童福祉週間』です。
この憲章にあるように、自分の子どもだけでなく、すべての子どもが心身ともに健やかに育つために、私たちに何ができるか、この機会に考えてみませんか?
まとめ
若葉青葉の美しい5月。
美しい野に出て、薬草を摘み、ヨモギ餅を作って食べ、菖蒲酒を飲み、薬草の力によって毒をはらおうという風習も、この時期ならではの対処法だと、私たちの祖先は教えてくれました。
化学薬品はたかだか100年の歴史しかありませんが、薬の開発の基盤となった薬草は数千年間も、人々に愛用され伝わってきたことがわかりますね。
それが男の子の行事となった語呂合わせのような成り立ち方は、意外なものでした。
中国から伝わったちまきと、日本古来からの柏餅。
味とともに由来や歴史も、一緒に楽しんでみて下さいね。