日本には、とにかくたくさんの神様がいますよね。
神社は日本のそこらじゅうに存在しますし、その境内にも小さな神社がいくつもあるくらいです。
それで結局、一番偉い神様って誰なのでしょう?
今回は、日本の神々の頂点に立つ「最高位の神様」は誰なのか、ご紹介したいと思います!
日本にはなぜたくさん神様がいるの?
子どもの頃はよく「お天道さまが見ているよ」なんて言葉を耳にしました。
悪いことはしてはいけないし、善い行いは誰も見ていなくても神様がしっかり見ていてくれるんだな、と思ったものです。
大人になった今、何か苦しいときや、絶体絶命の窮地に陥ったとき、心の中で「神様!」と救いを求めることがありますよね。
現代の日本人は信仰心がうすいと言われているものの、それでも神様は、幼かったあの頃から心の中に浸透しているようです。
そんな日本の神様ですが、キリスト教の神とか、イスラム教のアラーの神のように、唯一絶対神(一人の神様)ではありません。
日本には昔から『八百万の神』という言葉があります。
八百万とは、非常に多くの・無数の、という意味で、日本にはさまざまな願いに恩恵をもたらしてくれる神様がいらっしゃるということです。
人と神様の付き合いも古く、身の回りのどこでも神様の存在を感じていたことから、人は次々に新しい神様を作っては、使い分けてきました。
神話に出てくる神様、民間で信仰されている神様、自然現象から動植物まで、いろんなものが神格化されています。
それゆえ、古代から今日までの神様の数は、本当に「八百万」という膨大な数なのです。
日本最高位の神様
日本の国土を誕生させてくれたイザナギ(伊邪那岐命)と、妻のイザナミ(伊邪那美命)という神様がいます。
彼らによってたくさんの神々が誕生しました。
神々にはそれぞれ力と役割が与えられ、日本国を統一していきました。
そして現在、日本のすべての神々の頂点に立つ『最高位』の神様がいます。
日本人ならぜひ覚えておきましょう!
日本で一番偉いとされる神様をご紹介します。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)
出典;https://ja.wikipedia.org
天照大御神が、日本最高位の神様、つまり一番偉い神様とされています。
意外にも女神様だったことに驚く方も多いのではないでしょうか?
太陽を象徴する女神様でありながら、天上世界を治める国「高天原」の最高責任者でもあり、日本全国民の総氏神です。
日本神話では、最も権威のある地位を獲得した主神として登場しています。
そして現在、古来もっとも格式のある、日本最大の神社『伊勢神宮』に祀られています。
さらに天照大御神は、皇室の租神であるとも考えられており、つまり天皇家の辿り着く先が天照大御神である、と言い伝えられています。
だからこそ、天照大御神が祀られている『伊勢神宮』は、国家から天皇に準する最高の扱いを受けてきており、神社の原点だといわれているのです。
このように、神々の頂点に立つ天照大御神は、日本全国民のあらゆる願いを聞き届けてくれる、所願成就の神様として崇敬されています。
世界でも女性の神様がトップなのは日本だけなんだそう。
大昔から、卑弥呼、紫式部、清少納言など女性がたくさん活躍していたよね。日本は多様性の時代の最先端を行っていたのかもしれないね!
天照大御神は男神だったってホント?
ちなみに、天照大御神は男神だったとされる説もあります。
陰陽二元論とか、男子装束だったとか、ヒゲが生えていたとか、政権のために女神にすり替えたとか、これには諸説紛々で、真偽のほどは誰にもわかりません。
いろいろな解釈は出来ますが、文献から証明するのは不可能ですし、男神説は話半分に聞いておくのがよろしいかと思います。
古事記にも日本書紀にも、太陽神の性格と巫女の性格を併せ持つ存在として描かれていますので、現在でも国学時代に主流となった「女神説が一般的」です。
伊勢神宮や各神社でも「女神」とし、現代語訳本や漫画においても、「女神として描かれることが主流」となっています。
天照大御神の生い立ち
我が国の公式な歴史書『日本書紀』と、日本最古の歴史書『古事記』。
どちらにも天照大御神の生い立ちが書かれていますが、内容がちょっと違います。
『日本書紀』によると、日本という国を誕生させてくれた神様イザナギ(伊邪那岐命)と、妻のイザナミ(伊邪那美命)の子どもとなっています。
『古事記』によると、男神であるイザナギから生まれた子ども、とされています。
え、父親から生まれたの?どういうこと?
一番有名なのは、この『古事記』による伝承です。
ここでは奇想天外な『古事記』での誕生の神話を、簡単にご紹介したいと思います!
天照大御神の誕生
最古の夫婦神、イザナギと、妻のイザナミは、多くの神さまを産みました。
ところが最後に火の神さまを産むと、イザナミは陰部に大火傷を負ってしまい、亡くなってしまったのです。
悲しさのあまりイザナギは、イザナミを追って、死者の国である「黄泉の国」へ迎えに出かけました。
イザナミも、イザナギに会おうと努力はしたものの、黄泉の国の食事をしてしまったため、もうもとの国には帰れなくなってしまいました。
イザナギが迎えにきたことを知ったイザナミは、「わたしが地上へ戻れるか黄泉の国の神様に相談してみるので、しばらく待ってください。その間はわたしの姿は見ないでほしいのです。」と言い残し、奥の部屋へ入っていきました。
ところが、いつまで経ってもイザナミが帰って来ません。
イザナギはついに妻との約束を破り、髪にさしていた櫛の歯を一本折って火をともし、戸内に入ってしまいました。
するとどうでしょう。そこには、腐敗して蛆にたかられ、八雷神に囲まれた、最愛の妻の姿でした。
あまりの恐ろしさに、イザナギは地上へ向かって逃げ出しました。
自分の姿を見られたイザナミは、その後を追いかけましたが、イザナギは黄泉の国の入口を大きな岩で塞ぎ、妻と完全に離縁したのです。
岩の向こうからイザナミが「こんなひどいことをするなら、あなたの国の人間を1日1000人殺します!」と叫びました。
これに対しイザナギは、「それならば私は産屋を建て、1日に1500人の人を産ませよう!」と告げました。
このことによって、一日に多数の人が死んでも、またより多くの人が生まれるようになり、人類が増えて繁栄するようになったといわれています。
生還したイザナキは、水辺で黄泉の国の穢れを体から落とそうと、最後に左目を洗ったときに誕生したのが、天照大御神です。
このときイザナギは、天照大御神に首飾りの玉の緒を渡し、天の国である高天原の支配を命じたのでした。
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)という意見もある
日本最高位の神様といえば、天照大御神ではなく、じつは天之御中主神であるという意見もあります。
なぜなら天之御中主神は、『古事記』では神々の中で一番最初に登場する神様だからという考え方です。
また、その名の通り「天」=宇宙、「御中」=中心、「主」=支配する、という意味を持っていて、「宇宙の中央にいて支配する神」ということになります。
古事記には、「あるとき天と地が別れ、天の高天原に初めて現れたのが天之御中主神だったが、すぐに姿を隠してしまった」と書かれています。
しかし古事記にはその後一度も登場していないので、その姿や存在などは何一つ知られていません。
つまり、天之御中主神は宇宙そのものであるとか、北極星なのではないかという解釈があるようですが、実際にはどのような神さまなのか、具体的な活動すら不明のままです。
確かに、天地創生の頃の「宇宙の中心」なんて言われちゃうと、ほかの八百万の神様とは何か次元が違う存在のような気がするね。
神秘のベールに包まれた神さまって感じだね!
天之御中主神が登場した大昔の日本の国土は、まだ天地が若く、ふわふわと薄く頼りないものだったといわれています。
そうした中で次々に神さまが出現してきたわけですが、この国土をしっかりと作り固めるよう天の神々から命じられたのが、後世に生まれたイザナギ・イザナミでした。
日本の国はこうした多くの神々の力によって作られ、今日の基礎が打ち立てられたということを、日本神話が伝えているということです。
一般的にはどっちが最高位なの?
日本全国にある神社を包括する宗教法人『神社本庁』では、天照大御神を最高位としています。
ですので一般的には、最高位の神さまは「天照大御神」ということになるようです。
しかし前述したように、「日本で最初の神さま」であったり「宇宙の中心を領する神さま」などという様々な説の要素から、天之御中主神が最高位だという意見もありますよね。
天之御中主神に関しては人それぞれの解釈がされているため、そういう意味では最高位と位置付けるのは難しいようです。
ちなみに、日本の神社に祀られる天之御中主神の歴史は意外と最近で、ほとんどは明治以降になってからです。
天之御中主神は最も古い神さまなはずなのに、存在自体はかなり新しい神さまであることも見えてきました。
そういう意味も含め、やはり現在にも残る国家プロジェクトに貢献した実績をもつ神様に、最高位の称号が授けられることは、誰でも納得できるところではないでしょうか。
おわりに
日本神話に関してさまざまな学説が行き交うなかで、最高神をテーマとして掘り下げると、やはりたくさんの解釈が出てきます。
天照大御神は世界でも非常に珍しい女神ですが、その謎も深いもので、多くの国学者は今も研究を続けています。
ストレス社会といわれている現代、いっそう不安や悩みを抱えるようになったといわれていますが、進化心理学では、現代の人間も、太古の人間も、心のメカニズムは変わっていないので、太古の人間も不安になりやすかったと考えられています。
私たちは神様への信仰心とともに、心を専一にして祈るという行為そのものに、ひとときの心の平安を求めているのかもしれませんね。