学問の神さまとして名高い、天神様。
童謡『とうりゃんせ』の歌詞の中に登場することでも有名ですよね。
しかし、神さまなのに怖いイメージがついてくるのはなぜなのでしょう?
今回は、彼の天才ぶりから「不遇の死を遂げたあとのお話」をわかりやすく解説してみたいと思います。
天神様とは?
神様というと、自然に宿る神様を想像する方も多いかもしれませんね。
しかし、人間のなかにも神としての性質を見出し、亡くなった後に神さまとして崇めてきた例があります。
天神様もその一人。
天神様といえば「学問の神さま」として名高いですよね。
彼の本当の名前は「菅原道真」といいます。
もともと天皇の臣下(側近)で、平安時代の秀才と呼ばれていた人です。
あまりの秀才ぶりから、異例の速さで右大臣(今でいう内閣総理大臣を補佐する重要な人物)までに出世してしまったほどのエリートです。
字もとても上手で、弘法大師空海、小野道風と並んで、「日本の三筆」なんて言われています。
つまり、天神様は「学問と書道の神さま」という性格をもっています。
幼いころから卓越した才能を発揮していた彼は、多くの人から尊敬されていました。
また才能だけでなく、真面目でひたむきな人柄が多くの人の心を打ち、彼が亡くなると「天神様」として崇められるようになりました。
江戸時代に入ると、子どもたちが学ぶ寺子屋が普及し、「子どもが学問に親しみますように、字の上手な子になりますように」と、天神様はますます慕われるようになっていきました。
天神様の由来
人間を神様としてあがめる信仰を、「人神」といいます。
どういった人が人神になれたのでしょう?
それには2種類あります。
- 生前の偉業や功績を、後世の私たちに伝えるための場合。
- この世に恨みを残して亡くなった人が、祟りを起こすのではないかと恐れられて祀る場合。
天神様の場合は、残念ながら後者になります。
ではいったいどういう経緯があって、彼は恐れられていたのでしょうか?
菅原道真が「天神様になるまで」をご紹介します。
生前の菅原道真は人気者
菅原道真は、学者の家に生まれたことより、幼いころから人並外れた才能を発揮していました。
青年になると学者としての最高位「文章博士」となり、祖父や父と同じく着実に学者としての道を歩んでいました。
また、とても誠実な人柄だったことから周りからの信頼も厚く、さまざまな官職も就任し、着実に成果を上げてきた人です。
そして平安時代に認められて右大臣となった超エリート菅原道真は、このまま恵まれた人生を送るはずでした。
「ウソの訴え」で大宰府へ左遷
ところが、朝廷の政争に巻き込まれ、落とし穴にはまります。
左大臣(今でいう内閣総理大臣)藤原時平が、醍醐天皇に「道真があなたを退かせ、自分の娘婿の斉世親王(醍醐天皇の弟)を即位させようと企んでいる」と嘘の告げ口をしたのです。
この言葉を信じた醍醐天皇は、彼を都から遠い、九州の大宰府に左遷させてしまいました。
左遷とは、今までより低い役職や低い能力の業務に落とされること。
今でいう「飛ばされた」ということだね・・。
なぜ優秀な道真を左遷させたのでしょう?
一般には、時平が陰謀を企てたとされていますが、その背景は諸説あり、複雑です。
皇位継承を巡り、醍醐天皇と時平が有能すぎる菅原道真を追放し、宇多勢力を一掃するために仕組んだとか、道真に反感(嫉妬)を持つ人々の意向があったなど、当時の貴族社会の問題が目え隠れした内容です。
摂関家の御曹司・時平にとって、いわば成り上がりのキャリア官僚・道真と宇田上皇の中央集権的なやり方は、疎ましく思っていたに違いありません。
これを『昌泰の変』と言い、歴史上の事件として残されています。
ちなみにこのあとすぐに、藤原時平は妹である穏子を醍醐天皇の女御(奥さん候補)として入内させ、事実上の正妃に格上げさせています。
時平は精力的に政治改革を行い、醍醐天皇の治世は「延喜の治」と呼ばれ高く評価されることになりました。
菅原道真の死
一方、家族とじゅうぶんなお別れもできず、左遷させられた菅原道真。
太宰府への移動はすべて道真の自費だったそう。
そこではお給料も従者も与えられず、政務にあたることも禁じられ、衣食住もままならない厳しい生活を強いられました。
そして左遷から2年後の903年、失意のうちに亡くなったのです。
享年59。
刑死ではありませんが、緩慢な死罪に等しいと言われています。
彼は、いつの日にか疑いが晴れて帰京できることを夢見て、詩を書き続け、気持ちを紛らわせていたと伝えられています。
しかしその夢もかなうことはありませんでした。
この彼の死は、都の人々にとって後味の悪いものでした。
都で凶事が相次ぐ!道真の怨霊
道真の死後、都では次々と異変が起こり始めました。
都で疫病が流行り、落雷、干ばつ、火災が相次ぎます。
さらに示し合わせたように、道真を陥れた政敵が次々に不審死を遂げていくのです。
左遷に追いやった藤原時平は、909年、39歳の若さで熱病にかかり悶死。
時平と左遷に結託し、後釜として右大臣に昇進した大納言・源光も、913年、鷹狩りの最中に泥沼に転落して溺死、遺体があがらず。
923年、時平の妹と醍醐天皇の間に生まれた皇太子・保明親王が19歳で急死。
次の皇太子となった藤原時平の孫・慶頼王でしたが、925年、改元の甲斐なく5歳で急死。
そしてさらに、人々を震撼させる衝撃的な事件が起きます。
出典;https://ja.wikipedia.org
930年になんと、醍醐天皇のいる宮中に大きな雷が落ち、皇族や貴族が多数死傷し、醍醐天皇の側近である藤原清貫も焼死。
醍醐天皇はその惨状を目の当たりにしたことで体調崩し、そのまま亡くなりました。享年49。
あまりにも衝撃的で凄惨な事件であり、『清涼殿落雷事件』として歴史上に残されています。
じつは醍醐天皇は生前の923年、相次ぐ関係者の死に恐れおののき、道真の左遷を命じた文書を燃やし、左遷そのものを取り消していたそうです。
それほど「道真の怨霊のしわざに違いない」と誰もが考え、その祟りに怯えていたということです。
道真、天神様になる
不思議なことに、菅原道真の家があった桑原だけは、落雷の被害がありませんでした。
雷が鳴ったときに「くわばら、くわばら」と唱えるのは、このことが由来です。
道真の祟りを恐れていた人々は、道真の霊を神さまとして祀って、怒りを鎮めようと考えました。
そして947年、道真の祟りを解くために、京都北野にあった天神社のかたわらに、道真の霊を祀る社を造営しました。
これが「北野天満宮」のはじまりです。
こうして菅原道真は神さまとなりました。
今では学問の神様として名高い菅原道真も、「天神様」として祀られた当初は、何をやらかすかわからない怨霊として恐れられていたのです。
菅原道真の神社「北野天満宮」とは?
京都市上京区にある神社、北野天満宮。
菅原道真を祀っている、全国約12,000社の天満宮・天神社の「総本社」です。
その12,000社のほとんどは、この北野天満宮から御霊分けをした神社です。
「天神さん」「北野さん」とも呼ばれて親しまれており、学問の神さまのご利益にあやかろうと、現在多くの受験生たちの信仰を集めています。
天神様、学問の神様と呼ばれる
怨霊とされた天神様が、「学問の神様」と言われるようになったのは、江戸時代。
寺子屋が普及し、学問が身近になったころです。
学問に秀で、人々から厚い信頼を得ていた菅原道真にちなんで、自然と「学問の神様」として信仰されるようになっていきました。
寺子屋には天神様の神像が祀られ、手習いに来た子どもたちは、まず小さな手をあわせ、天読み、書き、算盤の上達を祈ったそうです。
それから現在では、全国の天満宮が学問の神さまと呼ばれるようになりました。
今でも受験シーズンとなると天満宮には多くの人が参拝に訪れ、学業成就を願っています。
おわりに
類まれなる才能の持ち主であり、性格も穏やかで聡明だったという菅原道真。
彼の生涯は波乱万丈そのものでしたが、最期まで人々から厚い信頼をよせられていたそうです。
時がたつにつれて、「天神様」として親しまれ崇められるようになるのは、彼の生前の清らかな人柄がたくさんの人の心を打ったからとも言われています。
怨霊と恐れられた数々の災いによって、彼は天神様として祀られる由来になりました。
そして学問の神様として全国の神社に御霊分けされたことで、私たちの身近で見守ってくれる存在になってくれたようです。